旧フランス領インドシナ料理で夏を迎えよう! 門外不出の「アンドシノワーズ」のレシピが一冊の本に。
「マレー蘭印紀行」という金子光晴の旅行記に夢中になっていたのは、高校に落ちた夏だった。福岡の私立には合格していたが、1年浪人して郷里唐津の県立を再び目指した。
蘭印とか、仏印とか、バトパハとか、ニッパ椰子とか、異国の空気にさすらったのは、ただ現実から逃避したかったのかもしれない。田舎の予備校には制服がなく、かと言って私服でもなかった。中学の制服を着て昼間にうろつく姿には、不審尋問が繰り返された。
インドシナという響きに再び出会ったのは、40年後の神田岩本町。「アンドシノワーズ」の2人との出会いだった。料理家の塩山舞ちゃんに招かれた部屋には、16の夏に憧れた彼の地がそのまま存在した。
主宰の園健さんが醸し出す異国の空気感、現地の魚醤やハーブを駆使した田中あずささんの料理、隣に座っていたペルシャ料理家中田マリアちゃんの深い瞳。
僕の身体はそのまま、旧フランス領インドシナの真ん中にいた。
あの夜から5年、僕の目の前に待望の本が届けられた。
「旧フランス領インドシナ料理 アンドシノワーズ」、そこには惜しげなく投げ出された門外不出のレシピの数々と、本来は写真家である健さんの写真と2人の文、旧仏印の空気が満ちている。
この本は1887年に始まり、67年後に消えた南のコロニアルに運ぶタイムマシン。今はもう、どこにも存在しない異郷の料理本だ。
「その昔インド亜大陸がユーラシアに衝突し、押し上げられた大地がヒマラヤとチベットになった。(中略)やがて河はシャングリラの渓谷を削り、ほどなく緑あふれるインドシナ半島に辿りつく」。
冒頭の健さんの言葉から、僕らはもうメコン河の中に放り出される。
旧フランス領インドシナ、現在のベトナム、ラオス、カンボジア。
日本人と同じように、米を食べ、魚を食べ、そして、鶏も、豚も食べる。
僕らと同じように、黄褐色の肌を持ったアジアの兄弟たち。
南国の豊かな自然を背景に、華僑や宗主国フランスの影響を受けて100年ほど前に開花した東南アジアの食の華。
「indochinoise(アンドシノワーズ)」は、フランス語の形容詞。今はもうインドシナという呼称や文化さえ忘れられつつある現代に、異国の地から熱いラブコールを送ったのが、2014年に生まれた魚醤とハーブの料理ユニット、「アンドシノワーズ」だ。
そこはレストランではなく、かつては確実に存在していた仏印の生活様式と歴史文化を伝えるためのラボだ。
1日1組限定の料理教室が終わり、試食の時間になると、料理の手を休めた健さんが食宴が続くポーカーテーブルの前で、料理の背景にある話を静かに語り始める。
実は、その時間こそがアンドシノワーズの豊穣のひと時だ。
ある日の健さんは、日に焼けた本を手に持っている。
「これは南べトナム時代に執筆されたレシピ本で、日本語に訳すと『酒のつまみの芸術』という意味でしょうか。1972年発行ですから、料理自体はもっと昔のべトナムで食べられていたもの。現在の料理と比べると材料が違っていたりして興味がつきません。中にはタガメの油とかも出て来ますよ」。
背後では、デザートの準備をしながら、あずささんが微笑んでいる。
「アンドシノワーズ」では、数え切れないくらいの料理に出会ったが最も鮮烈にハートを鷲掴みにされたのは、「白身魚のラープ」と「ゲーンノーマイ」という山岳地帯のスープだ。
「ラープ」はラオスでいちばん有名な、国民のおかずだと言う。肉や魚、時には貝類などのタンパク質と5~6種類の葉野菜を濁り魚醤とライムで和える。
同席した女性たちのほとんどが「ラープの無限ループの中で泳ぎたい」と言い出すほど、強い習慣性を持っている。現地では、テラピアやライギョで作られるらしいが、東京ではタイやハタ、ヒラメなど、海の中層域を泳ぐ白身の魚が合わせられる。
右手で糯米をチムチム(小さく指で掴み取りながら丸く纏める)しながら一緒に口に放り込むと、いくらでも食べ続けられる。
かくして、本来はヘルシーなはずの葉野菜の集合体が腹と瞼を重くして、いつか気怠い多幸感に包まれて行く。
「ラープ」とは「幸せ」という意味だと、あずささんに聞いたことがある。
ラオス人たちにとって、それは「健康」や「嬉しさ」さえ意味するものだと言う。
だから冠婚葬祭や、誕生日、記念日などのお祝いの席には今も「ラープ」が欠かせない。
強烈な勢いで時代を走り抜けたベトナムと違い、ラオスにはまだインドシナが息づいている。
湖沼や川の料理「ラープ」に対して、「ゲーンノーマイ」は山岳地帯の料理。
山あいにも土地を構えるラオスの豊かな食文化を象徴する滋味深いスープだ。
僕はアンドシノワーズで供されるまで、こんなに豊かなスープに出会ったことはなかった。
その夜出されたものは、擂り下ろしたタケノコをベースに豚肉と緑の野菜、カボチャも加えられていた。現地ではヤナーンという青い葉野菜の絞り汁を使うらしいが、東京アレンジでは八丈島などで食べられているアシタバが、程よい青臭さを加えていた。
そんな魅惑のレシピの一つひとつが、46種類に渡って紹介されるアンドシノワーズ初めての著作は、1日1組のプラチナシートに座れないすべての人々にインドシナ料理を浸透させる福音の書だ。
もちろん、レシピの背後から聞こえてくる2人の話も存分に散りばめられている。
料理を分ける章の区分が、「山の章」、「湖沼の章」、「海の章」、そして「平野部の章」というのもアンドシノワーズの2人ならではの機知だと思う。
単なる料理本でも、レシピ集でもなく、写真集でも、エッセイでもない。
今はもう出会うことができないフランス領へ誘う本書は、この季節、自分で料理を作る楽しみに目覚めた諸兄たちにも未知の興奮を運ぶだろう。
何はともあれ、園健さん、田中あずささんの初めての著作に、幸福な読者として心から賛辞を送りたい。
indochinoise(アンドシノワーズ)
東京都千代田区岩本町 ※詳しい住所は申し込み時にお知らせ
予約メールアドレス:info@indochinoise.com
http://indochinoise.com/about